コンテンツ漂流記

興味関心の動きを記録します

劇場版『流浪の月』、浅草ロック座

 

 オーディオブックで『流浪の月(凪良ゆう)』を聞き、実写映画化されたので見に行った。

 大好きな物語が尊重されているか、確認のような鑑賞姿勢だった。

 結果としてとてもよかった。物語に流れる曲も、幸福な時間の描き方も、痛ましさも、よかった。原作からカットされている要素ももちろんあるのだろうけれど、映像化にあたってとてもよいものをみたとおもった。

 劇中に登場する本や、カラオケシーンや少女が見ている動画で流れているヒットソングの登用がもたらす現実と地続きであることの確かさを見て取った。

 安西さんは作中でも彼氏や旦那の存在を人生を安定させるために必要なものだと語っていた。りかちゃんが動画サイトで見ていたのは以下の動画だったと思う。

 

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 横浜流星さんの演技が容赦なく怖かった。横浜さん自身のサプライズ誕生日プレゼントに作中のバカラのグラスが贈られるの、この劇場版スタッフが解体された後にも横浜さんの自宅には存在し続けるのかもしれないと思うと、えげつないことをするな…!と思ったりもした 

 同週に初めてのストリップ劇場を体験した。

 美しい肢体がライトに照らされているさまを見ているとき、球体関節人形を直視しているのとおなじ感覚があった。裸を衆目に晒す恥じらいや、嫌悪の感情は顕われず、うつくしさを讃えている。キャストは観客の視線の導線を把握し、自身の身体がもたらすいちばんうつくしいポージング、影のおとしかたを知っているに違いない、と思った。

 他人の足の裏を見ることは、そうそうない経験だとまじまじと見た。ダンサーとしての彼女たちの足を包む靴は演目ごとにくるくる変わる。衣装に合わせたものを選んでいるのだろうけれど、中でも裸足は躍動に伴う骨の動きが読み取れて、情報量が多くてたまらなかった。

 空腹もあり第一部のみの鑑賞となったけれど、また観にいきたい。

 好きな講談師神田伯山さんが以前対談していた武藤つぐみさんのエアリアルティシューは圧巻だった、常に上部を見ていなければいけないので首元に支えを要するほど、天からつるされた布を操り、布のブランコにうずくまる彼女はわたしの視線をくぎ付けにした。

 鈴木千里さんのショートカットの髪から流れる輪郭への線のつながりから目が離せなかったので、ブロマイド写真を一枚購入した。彼女自身が選択したものかは定かではないのだけれど、手のひらの装飾具や耽美な演目における振る舞いも、たいへん美しかった。とても大好きになったからだ。

 流浪の月でも裸をさらすシーンがあり、連日こうして他者の裸を直視するのは不思議な心地だった。流浪の月には、さらすことに対するおそれがあり、ひどく対照的だった。

 コンテンツを漂流するなかで別の作品や体験がある個所と符合したときに唸ってしまう。そのタイミングでしか得られない流れであり、感慨かもしれないからだ。

 興味思考の変遷を辿るなら、同じ要素を含んだものを選択する指向性は無意識化にもあるのだろうけれど、そうしたときにわたしは生きて複数の作品を摂取することについてよろこびをかんじる。コンテンツを比較対照することを好ましく思っているのかもしれなかった。

 とりあえず、流浪の月から発生した新しい興味関心としてはハンドドリップしたコーヒーの質感を経験してみたい。コーヒーにあまり感慨がなく、未体験のことだからだ。

 

 やっていないことをやっていく人生にしたい。寝ます。